もと(原因)はこちら(私の側)、そのまま結構
亡き父が若い頃、あるお坊さんに聞いたという口癖を思い出す。
何が起きても、
結局は、
もと(原因)はこちら(私の側)、
そのまま結構。
子供の頃から、何度も何度も、亡き父から聞いてきたこの言葉の深さを今感じている。
本当にそうなのだ。
一見、問題が起こった様に見える時、原因は外にはない。
すべて自分自身の内面が投影している影絵に過ぎない。
それは、鏡に自分の姿が写っているのを見て、自分を認識出来るのと同じ構造だ。
外なる現実や他人を通して、今の自分自身の波動状態を確認する事ができる。
もし相手の中に、イライラや不満や傲慢さが感じられ、あなたとの間でケンカになったら、それは今あなたの心の波動がそれと呼応しているという事。
本当は、相手を通して、エゴマインドにかられ暴走している自分の姿を見ているのだ。
エゴマインドに動かされているか否かは、自分の現実への反応の仕方を観察すれば、よくわかる。
感情的になり、現実をエゴの思い通りにコントロールしようと過剰反応していないか?
現実が、相手が悪いのではない。
今のあなた自身の波動状態が悪いのだ。
そんな時、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えつつ、ハートに手を当てながら、内なる光のエネルギーフィールドを感じてみる。
すると、あなたは深い呼吸とともに、ハートの内側に広がっている安心感を感じることができる。
高い所から自分を俯瞰して見ている阿弥陀仏の視点を感じてみる。
すると、気がつけるのだ。
「又やってしまった」。
深い後悔と慚ぎの思い。
「本当に心からごめんなさい」
自分と周りを苦しめ、ストレスを作り出していたのは、私自身でした。
生き方、あり方が根本から間違っていました。
今後、どんな人が人生に現れたとしても、感情的に反応して、争いのエネルギーを生み出すことは、もう二度としません。
鏡に映る映像(現実)を本当に変えたいなら、
唯一出来ることは、
今あなたのハートの波動状態を変えること。
いついかなる時も、
もと(原因)は、こちら(私の側)。
すぐエゴマインドに駆られるからこそ、南無阿弥陀仏と唱えつつ、呼吸とハートに意識を向け、「感謝と喜び」の波動を放ち続けたい。
そんな魂の願いが湧いてくる。
エゴマインドに駆られた後悔と慚ぎの思いが非常に深いからこそ、
本来の「感謝と喜び」の波動であり続けたいという魂の願いもより強くなる。
南無阿弥陀仏をとなえると、この両方の感情が同時に湧いてくる。
自らのエゴマインドに対する慚ぎの悲しみ。
魂本来の感謝と喜び。
もし次に、とっさに感情的になりそうになったら、まず一つ深呼吸して、ハートに手を当て、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えたい。
しばらくそうしていれば、自然とあなたのエゴは本来の魂の状態に戻ることが出来るから。
口を開いて誰かに言葉を発するのは、あなたが必ず魂の状態に戻った後、穏やかな心と表情に戻ってからにしたい。
最後に一つ、私の大好きなAyako Suzuki(鈴木章子)さんの詩を紹介したい。
One's destination.( 行き先き) As long as you remember where is your destination,( 行き先きさえ しっかり 覚えていれば) you will always arrive there.( 必ず そこに着くものですよ) For example, even if you get on the wrong train ( たとえ 反対向きの汽車に乗ったにせよ) and suddenly realize, "I'm going the wrong way,"( "あー 反対だった" と気づけば) although you lose time( 少々時間はかかりますが), you will still reach your destination.( 行き先きには着くものですね) Now I get it.( あーそうか) Because we have a final destination,( 行き先きがあるから) we are able to know which is the right derection.( 方向ちがいがわかるのか)