アメリカ(IBS)で 私の意識が深まった体験 ②
京都大学の博士課程のコースワークを終えた後、私はアメリカ・カリフォルニア州のBerkeleyにあるInstitute of Buddhist Studies(IBS) に客員研究員(visiting researcher)として留学しました。
大学生の頃から、私はずっとアメリカに留学したいと思っていました。
それは、日本仏教(Zen)を世界に伝えた鈴木大拙(D.T.Suzuki)さんに憧れていたからです。
いつの日にか、私も日本仏教(浄土真宗)を、自分の言葉で世界の人々に伝えることができるようになりたいと思っていました。
だから、私はアメリカに渡りました。
留学中、私はIBSの寮に住んでいました。
(といっても大きな家でしたが↓)
その同じ寮の、隣の部屋に住んでいた留学生が、韓国仏教の尼僧さん、Dongho Sunimでした。
私は彼女と一緒に話していると、とても楽しかったのです。☺️
言葉を交わすと、私は文化や言語の違いを超えて、彼女の精神性を深く感じ取ることができました。
世の中には、彼女の様な美しい魂の人が存在したんだ!
嬉しい驚きでした。
政治的には、日本と韓国は距離をとっているかもしれない。
けれど、個人として見れば、日本人と韓国人は似ているところが多くあると感じました。
国は違っていましたが、彼女と私は同じ仏教徒でした。
だから、「一緒にevening serviceをしよう!」と私たちは決めました。
夕食後の午後8時ごろ、chanting room(=お仏壇が置いてある部屋)に私たちは集まりました。
そして、仏壇の前で、私は声に出して阿弥陀経(Amida Sutra)を読経しました。
その私のすぐ隣で、彼女が五体投地(prostration)をしました。
私たちが話しあった結果、共通して読んでいるお経が「阿弥陀経(Amida Sutra)」だったのです。
ですから、発音の仕方は違いましたが、同じお経ですから、私たちはその意味を共有できたんです!
そして、私が「阿弥陀経(Amida Sutra)」を唱え(chant)終わったタイミングで、彼女が五体投地(prostration)を終えていました。
それから、私たちは一緒に坐禅をしたのです。
ここで、坐禅と瞑想の違いについて非常に簡単に書いておきます。
仏教での坐禅では、目を半分開けた状態(半眼)にします。
そして、足を組んで座ります。
一方、瞑想は目を閉じて、座ります。
この時、私たちがしたのは坐禅です。
彼女の隣に座ると、不思議なことに 全く彼女の気配を感じなかったのです。
呼吸の音さえ聞こえませんでした。
毎日彼女の隣で坐禅をしている(was doing)と、私の内側の意識状態もどんどん深くなっていったのです。
彼女のおかげでした。
マインドの声がなくなり、静寂なる意識の中、私の身体と空気の境目が消えてしまった様に感じました。
私は、ただ存在している。
とても静かな穏やかな意識状態でした。
しかも、
感じている主語がなかった。
感覚だけが存在している状態。
今にいる。
言葉が何も湧いてこず、ただ存在を感じているだけだったのです。
坐禅が終わると、世界が深く静まり返っていました。
ずっと本で学んでいた、「今を生きる」ということ。
それは、言葉では表現できない、この意識状態のことではなかったか?
初めて、私はその意識状態を自分の身体を通して体感することができました。
(お釈迦様(Buddha)の意図①へ続く)